読書感想6.「20歳の自分に受けさせたい文章講義」古賀史健

読書感想の第6回。

本の概要

・タイトル:20歳の自分に受けさせたい文章講義
・著者:古賀史健
・出版社:星海社
・出版年:2012年
・頁数:210ページ

要約:
「嫌われる勇気」の著者として有名な古賀さんによる文章講義。「頭の中にあるものをそのまま抜き出せばいい」という固定観念をぶった切ってくれる本。頭の中にぐるぐるしているものを、論理立てて文章にする方法について詳しく書かれている。
この本を読んだ理由

「きみは文章がうまくならないねぇ…」。これは私が上司に言われた言葉である。ぐっはぁー。痛恨の一撃。これが嫌な上司に言われたのなら、酒の量が増えるくらいで済んだはずだった。だが、この言葉を放ったのは、面倒見のいい、私の尊敬する上司だった。その上司に匙を投げられたのだ。期待を裏切ってしまったことが申し訳なく、心が痛んだ。なんとか文章力を磨かねば。文章本を読み漁る中で、本書に出会った。

私は電機メーカーの研究者として働いている。研究職の仕事の50%以上は文章を書くことである。週一の進捗報告書、研究企画書、研究成果報告書、開発計画書、日々のメール、実験進捗のチーム向け報告書。研究者が(というか社会人が)こんなに文章を書くという事実を、私は入社して初めて知った。私は文章を書くのが下手だった。だから仕事に多大なる支障をきたした(今も苦手だ)。なぜ下手なのか。それは、文章を書く練習をしてこなかったからである。

以下では、本書を読んで、私が感銘を受けた文章を紹介する。文章講義といっても、ほとんどが当たり前のことを言っている。だが、そんな当たり前のことに感銘を受けてしまうくらい、私は作文の勉強をしてこなかったのである。

話すことと書くことは違う

「話すこと」と「書くこと」は、まったく別の行為だ。決して「同じ日本語じゃないか」などとひとつの土俵で語ってはいけない。

古賀史健著「20歳の自分に受けさせたい文章講義」星海社(2012年).

繰り返すが、私は学生のとき、文章を書く練習をしなかった。なぜかというと、「自分は文章を書けない」と思っていなかったからである。言い訳になるが、練習をサボったわけではない。練習をする必要があることを、知らなかっただけなのだ。

私はしゃべりが上手いわけではないが、日本語は話せる。だから、日本語も書けるだろうと、思っていた。現にチャットメール(当時はLINEが無かった)は普通に書いて送っていた。その当時は、何千文字というまとまった文章を書く機会がなかったので、不自由を感じなかった。

それに、誰も「文章力が大事だよ」とか「話すことと書くことは違うよ」なんて、アドバイスもしてくれなかった。だから文章力の必要性に気づけなかったのだ。

書く技術は学校で教わらない

自分の小中学校時代を振り返ってみても、”書く技術”らしきものを教わった記憶は皆無に等しい。作文の時間にはいつも「思ったとおりに書きなさい」「感じたままに書きなさい」と指導されてきた。

古賀史健著「20歳の自分に受けさせたい文章講義」星海社(2012年).

古賀さんの言う通り、私も”書く技術”らしきものを教わった記憶は皆無だ。作文を書いたかすら怪しい。唯一、文章らしいものを書いた記憶は、夏休みの読書感想文だ。松井秀喜さんの「不動心」という新書を読んで書いた気がする。

いや、正直に白状しよう。本を読んだというのは嘘だ。パラパラめくっただけだった。そして、何を書いたか覚えていない。きっと「松井秀喜の心は動かざること林のごとし。林井秀喜と改名すべき」くらいしょうもないことを書いたのだろう。

頭は考える道具ではない

どうすれば自分の”感じ”や”思い”を、文章として正しくアウトプットできるのか?ぼくの結論はシンプルだ。書くことをやめて、”翻訳”するのである。文章とは、つらつら書くものではない。頭のなかの「ぐるぐる」を、伝わる言葉に”翻訳”したものが文章なのである。

古賀史健著「20歳の自分に受けさせたい文章講義」星海社(2012年).

この文章を読んで、私はハッとした。「頭って考える道具じゃないんだ」という真理に気付いてしまったからだ。

定番なお説教の一つに「頭を使って考えろ」というものがある。これを聞いた幼いざこべん少年は「ものごとは頭で考えるものなのだ」という固定概念を植え付けられた。以後、20代後半になるまで、何の疑いも持たず、あらゆることを頭で考えてきた。

だが「頭で考える」は実はナンセンスであった。悲しいことに、頭は意外とバカなのである。頭は考えるのに向いた道具じゃない。試しに「妻の好きなところ」を100個言ってみてほしい。独身の人なら、彼女でも、初恋の人でもいい。とにかく、大好きな人の、大好きな理由を頭で考えてみていただきたい。

かわいい。愛くるしい。やさしい。気遣いができる。…

パッと20個も言えたら大したものである。普通は10個も言えないはずだ。しかし、相手のことは間違いなく大好きなのである。理由が言えないからといって、好きと言う感情は嘘ではない。何が起きているかというと、頭の中を「好き」が「ぐるぐる」しているだけなのである。つまり頭は、普段からたいして考えていないのだ。

頭が考えていないのだとすれば、何で考えたらいいのか。それは紙である。書くことである。

書くことは考えること

なぜ若いうちに”書く技術”を身につけるべきなのか?答えはひとつ、「書くことは、考えること」だからである。”書く技術”を身につけることは、そのまま”考える技術”を身につけることにつながるからである。

古賀史健著「20歳の自分に受けさせたい文章講義」星海社(2012年).

妻の大好きなところを挙げてみると、かわいいとか、浅い感想が数個出てくるだけであった。これは頭で考えているから浅くなるのであって、じっくり時間をかけて書いてみると、好きな理由はどんどん具体化できる。たとえば、こんなふうに。

母の日に買ってきた花束。もうすっかり枯れてしまって、クローバーみたいな雑草だけになってしまった。けれど、ガラス瓶に差して、テーブルの上に飾ってくれている。私の見ていないところで、こまめに水も替えているらしい。私が花を滅多に買ってこないから知らなかったが、妻はどうやら花が好きらしい。妻がどんな気持ちで花を愛でているのか、想像すると、健気で可愛らしい。

やっぱり文章で書いてみると、頭で考えるよりも、格段に「考えている」感じが出る。書くことで、考えているのである。

上の文章は、頭に存在したものを抜き出したわけではない。書いているうちに、考えが浮かんできたのだ。最初は、ぼんやりと花束のイメージだけが頭の中に浮かんだので「母の日に買ってきた花束」と、とりあえず書いてみた。

そうしたら、どんな花束だったかな?という次の思考に移れる準備ができて、クローバーみたいな雑草だったな、という記憶が呼び起された。「…雑草だけになってしまった」と書いてみると、雑草だけど、ちゃんと瓶に入れて飾ってくれていいたな、という思い出が蘇った。

こんな風に、頭の中にあったイメージを文章に起こして、目で読める形にすると、無理に頭で考えようとしなくても、次々と考えが浮かんでくる。これが「書いて考える作業である」と私は理解している。

こんな単純なことを、私は大人になるまで(大人になってからもしばらく)知らなかった。おかげで、青春時代の思い出は、ずいぶんぼんやりしている。日記でも書いておけばよかったと後悔している。

さいごに

この本には、文章講義ということもあり、テクニック的なこともたくさん書かれている。が、私は「頭の中のものを出すのではなく、書きながら考えるのだ」というマインドセットの部分に特に感銘を受けたので、精神論が中心の読書感想になってしまった。

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