社会に出たとき本当に役に立つ教科はアレとアレだった

今回のテーマは「大切な教科」です。

勉強法のブログなので、どうしても英語とか数学のように、点数が伸びやすい教科の記事ばかりを書いてしまいます。けれど、私が本当に大切に思っている教科って、英語や数学じゃないんです。

大学で物理を勉強して、(底辺社員ですが)電機メーカーの研究者になって、海外の大学でも仕事させてもらう機会をいただきました。おそらく、私は他の人にくらべて、物理・数学・英語などの勉強を活かしやすい環境にいると思います。

その上で感じるんです。数学とか物理とか英語よりも、もっと大事な教科があったなあ、ちゃんと勉強しておけばよかったなって。

今回は、社会に出て本当に役に立つ教科を二つ紹介します。

道徳:損得勘定から離れる練習

一つ目教科「道徳」です。

お食事中の方には先にお詫びします。これ以上よい例えが思いつかなかったので、うんこの話をします。

カレー味のうんこと、うんこ味のカレー、どっちを食べるかを議論することがありますよね。究極の二択ってやつです。人の尊厳をどう扱うかに関わる難しい問題ですよね。

カレー味のうんこ派の意見

「これはCoCo壱のカレーだよ」と言われて出されたカレー味のうんこなら、なんら支障はありませんが、それをうんこだと認識した時点でややこしくなります。

食べた瞬間は良いです。カレー味ですから。しかし、就活や子育て、仕事の山場を迎えたときに、ふと「自分はうんこを食べた人間だ」と思い出すかもしれません。

うんこを食べてしまったことで、周囲の人間よりもワンランク下の存在になったと感じる場合もあります。すると、自己肯定感が下がり、ここ一番で踏ん張れなくなる可能性があります。

また、カレー味のうんこを食べた秘密が誰かに漏れてしまうこともあります(うんこだけに)。そうなると、職場でのあだ名がウンコマンになります。これは避けられません。カレー味のうんこを食べることは、それだけリスキーな行為なのです。

うんこ味のカレー派の意見

一方で、うんこ味のカレーはどうでしょうか。

うんこ味なので、食べるのに相当な勇気が要ります喉元過ぎれば熱さを忘れると言いますが、それはうんこを食べたことがない人の意見です。

実際にうんこを口にすると、その喉元を通り過ぎる時間が無限に長く感じるものです。ざらりとした不快な食感。口蓋から鼻に抜ける凶々しい臭気。これを食べてはいけないものだと、脳が、体が、全力で拒絶するのです。誤解のないように申し上げておくと、私はうんこを食べたことはありません。

うんこカレー問題の結論は、うんこ味のカレー

カレー味のうんこか。うんこ味のカレーか。

私なら、散々迷った末、うんこ味のカレーを食べると思います。なぜなら、うんこ味のカレーを作らされたシェフの気持ちに寄り添ってあげたいからです。

この問題を考えるとき、多くの人は、自分が損か得かで答えを出そうとします。しかし、どちらを選択しようと、私たちよりも遥かに可哀想なシェフという存在がいることを忘れてはいけません。

うんこ味のカレーを作るのに、いったいどれだけの努力が必要だと思いますか?

うんこの原料の使用を禁止された上、カレーの強烈な香りを完璧に取り除くミッションを与えられるのです。グッチ裕三が100人いても難しいフェイク料理です。

当然ですが、うんこ味を再現するためには、うんこ味を精確に覚えなければなりません。

一口にうんこといっても、体のコンディションによって十人十色な匂いを発します。きっと味も一通りではないはずです。そのため、シェフは様々なうんこ味のうんこを食べる修行をするはずです。

うんこ味を記憶した次は、フェイク食材を使って味を再現する工程ですが、これも一筋縄ではいかないはずです。どうしてもカレーの香りが残るでしょう。限りなくうんこっぽいけど、微妙にカレー風味なカレーが幾度も誕生することは想像に難くありません。その度にシェフは嗚咽しながら味見をするのです。

いかがでしょうか。この事実を知った上で、それでもなお、カレー味のうんこを選べるでしょうか?選ばれずに残ったうんこ味のカレーを、泣きながらゴミ箱に捨てるシェフの気持ちはどんなものでしょうか。

道徳とは、自らの損得勘定から離れて、他者の気持ちを慮れる能力のことだと、私は思っています。

損得だけで言えば、カレー味のうんこが優勢だと思いますが、うんこ味の苦渋を飲んででも、シェフの魂を救おうとする姿勢は尊いものです。

もしかしたら、うんこを味わったもの同志として、シェフと友達になれるかもしれません。シェフに「救われたよ、ありがとう」と言ってもらえたら、「うんこ味わってよかった」という、晴れやかな気持ちになることでしょう。

このように、うんこカレー問題は、どちらを選択しても不幸になると思われがちですが、損得ではなく道徳的な見方をすれば、しあわせになるルートが存在します。

私の経験上、ものごとを損得で判断するよりも、道徳的な良し悪しで判断する方が、しあわせな気持ちになれます

しあわせになるだけでなく、最終的に得になるケースも多いです。これは仕事にも当てはまります。

道徳性が低い人とは、一緒に仕事をしたくないんです…。頭が良くて仕事ができても、自分の得ばかり考える性格の人は、人望を得にくいものです。

一方、おバカで仕事ができなくても、すすんで損を買ってくれる善人であれば「こいつのためなら」と助けてくれる人が集まります。

仕事はチームプレーなので、損得勘定で動かない善人の方が、長い目で見るといい成果が出せるのでないか、と私は考えます。

以上の理由から、学校の教科でいちばん役に立つのは「道徳」だと思います。損得ではなく「徳が積めるか?」という見方ができれば、しあわせになれる確率が高まるのではないでしょうか。

国語:日常のしあわせを感じとる練習

二つ目の教科は「国語」です。

国語力というと範囲が広いですね。読解力や語彙力も大事だと思いますが、私が何より大切だと思うのは「作文力」です。

ここでいう作文力とは、自分にウソをつかずに、自在に文章を書く能力のことです。おもしろい日常系ブログを書く力とも言えます。

モノを売るためのコピーライティングとは違います。新聞や論文を書くためのロジカルライティングでもありません。格好をつけずに、感じたことを上手く言語化して書く能力です。

たとえば「ロッキーの映画を観て面白かった」と感じたとします。これをブログにどう書くでしょうか?(友達にどう話すかを想像してもかまいません)

私は作文力がなくて後悔している側の人間なので、うまい例は出せませんが、少なくとも「ロッキーの映画を見てクソ面白かった」とだけ書いているブログがクソつまらないことだけは言えます。

何が印象的だったのか、自分のどんな価値観にマッチしたのか、例えると何か、というふうに具体的に言語化し、自分の心理描写で味付けしないと、エピソードは面白くなりません。

つまらないのを承知で、私の作文例をお見せします。

 映画ロッキーの「生卵5個をジョッキに入れて飲み干すシーン」が印象的でした。

 現代の栄養学では、生卵よりも加熱した卵の方がタンパク質の消化吸収効率がよいとされています。吸収効率は生卵が51-60%、ゆで卵が91-94%と約2倍の差があります。それゆえ、現代のボディービルダーはゆで卵を食べるのですが、かつて生卵を一気していた伝説的ビルダーがいました。マッスル北村です。

 日本人最高のバルクと呼ばれた北村さんは、「限界に挑戦して素晴らしい肉体を築きたい」と語るほど食生活がストイックなことで知られており、あまりに過酷な食事制限により餓死しました。

 北村さんは私の大学の先輩にあたります。わたしがユルフワなキャンパスライフを送る一方で、死と隣り合わせな極限生活に身を投じた先人がいたということに、18歳の私は衝撃を受けました。

 その北村さんが生卵10個のプロテイン割りドリンクを飲むとき、口ずさんでいたのがロッキーのテーマソング・ロッキーファンファーレです。ロッキーの生卵一気シーンを初めてみたとき、これに北村さんが感動したんだな、という追体験が私の中に生じました。ある意味で聖地巡礼でした。

 それ以来、自分も一度は生卵一気をやってみたいと思うのですが、あの白身のドゥルンとした感触が苦手で、一個すら一気できずにいます。

という具合です。私の感動ポイントは、ロッキーがマッスル北村さんに重なって見えたよ、という点でした。

こう書くと色々考えている風に見えますよね。でも、私のように、はたから見て何を考えているか分からないタイプは、実際のところ、自分でも何を考えているか分かっていません

私がロッキーを見ているとき、頭の中では「ぬぉぉ…。ふぉぉ…。」しか考えていないんです。言葉未満の「ふぉぉ…」が渦巻いている状態です。私はこのふぉぉを裸の感動と呼んでいます。裸の感動は、感動力が弱いです。

作文は、裸の感動に言葉のドレスを着せて、人前に出しても恥ずかしくない感動にしてあげる作業です。そうすると、自分でもどこに感動していたのかを認識できるようになり、感動が増幅します。

感動の多い人生はしあわせです。作文力を鍛えることは、すなわち日常に隠れているしあわせを感じとる能力を養うことでもあるのです。

では、作文力を鍛えるにはどうしたら良いでしょうか?

私の個人的な見解では「この人の文章好きだな」と思える作家・ブロガー・インフルエンサーを見つけ、その人の文体を真似して、日記を書き続ける以外ないと思っています。

たとえば最近の私は、カレー沢薫さんの「負ける技術」や幡野広志さんの「なんで僕にきくんだろう。」みたいなユーモアのある文章に惹かれて、なんとか真似できないかと試みています。

文体を真似するとは、その人が使っている文章表現をパクることです。

たとえば「驚いた」ひとつを取っても、「びっくりした」「衝撃を受けた」「全米が驚愕した」「鳥肌が立った」「ハッとした」「顎が外れた」「ビビッと来た」「腰が抜けた」「目ん玉を丸くした」「初めてフォアグラを食べたとき以来の驚きだった」「10万ボルト級の電流が走った」「驚いてサトシのリザードンくらい体が言うことを聞かなくなった」などの文章表現があります(これでもごく一部)。

好きな作家の文章表現をストックし、自分の感覚がどれに近かいかを吟味することで、裸の感動が言語の服を着用し、晴れて感動を咀嚼することができます。

少し話が脇道に逸れてしまいました。なぜ作文力が大事かというと、感動を深堀りできて、しあわせを感じやすくなるからなのですが、なぜそれが社会に出て役に立つのかと言うと、作文力のある人は「話がおもしれえ」からです。

私のように国語をおろそかにし、作文力を磨かないまま大人になると、話のクソつまらない人間になります。学生のみなさまにはぜひ危機意識を持っていただきたいです。

クソつまらないとは、ゲラゲラ笑えないだけでなく、考えさせられるところがないということです。つまり人間が浅いのです。

反対に、作文力がある人の話は、独自の目線で感動が深掘りされているため、考えさせられるところがあります。波乱万丈な人生を送っていなくても「へぇ、そんな些細なことでも感動できるんですね」と感心する小話を持っているものです。

話が面白いのは、何ものにも代えがたいアドバンテージです。話が面白い人の周りには人が集まります。

■人生はクレーンゲーム

道徳と国語が大事だよって話をしました。

道徳と国語は、英語や数学よりもずっと大事です。なぜこんなに大切に感じるんだろうかと考えてみたのですが、その理由は、私が「人生ってクレーンゲームみたいだなあ」って思っているからだと思います。

知ってました?人生ってクレーンゲームなんですよ。

私たちって、つまるところ「しあわせ」になるために生きていますよね。人生のクレーンゲームは、箱の中のしあわせをゲットするゲームです。しあわせをゲットするために、私たちは一生懸命働いてお金を稼いでいます。

たくさんお金があれば、たくさんクレーンを動かせます。景品をゲットできるチャンスが増えるわけです。英語とか数学は、お金を効率よく稼ぐための手段ですから、たくさん勉強すれば役に立ちます。

でもね、クレーンゲームの景品って、しょぼいんですよ。

5000円つぎ込んでゲットしたのが500円相当のぬいぐるみだった、なんてのは良くある話です。クレーンゲームの箱の中は、外から見れば魅力的に映りますが、実際に手に入れると「しょぼいな」ってものが多いんです。

だから、たくさんお金を稼いで、クレーンゲームの景品を100個集めたところで、しょぼいものには変わりないんです。英語や数学を勉強するのって、しょぼい景品を50個手に入るはずだった人生を、100個手に入るようにするようなものだと思います。でも、結局はしょぼいんです。

景品がしょぼいなら、どうすればいいんでしょうか。

私は「うっひょー!うれぴー!」と大げさに喜ぶしかないと思っています。景品をゲットできたことを、心からありがたがるんです。

「このぬいぐるみ、よく見たら鼻がキュートじゃん!私のタイプ~。素敵!」って、頑張っていいところを見つけましょう。これが作文力です。国語の力です。他人と同じ景品をもらっても、自分で100倍楽しめばいいんです。

「このぬいぐるみ、姪っ子が好きなやつだなぁ。よし、プレゼントしよっ。あー、いいことした」って喜び方も素敵です。これが道徳です。自分が得するとか損するとか考えると、クレーンゲームって楽しくありません。だって、基本的には損するゲームだから。そうではなくって、損得勘定を捨て、誰かのために一生懸命になるほうが、しあわせを感じやすいはずです。

偉そうに語ってしまいました。

私は人生=クレーンゲーム説を信じていますが、異論は認めます。

お金儲けを否定するつもりはないんです。お金をたくさん稼いで、クレーンゲームでたくさん遊ぶこと自体が好きな人もいるでしょう。そういう楽しみ方ができるのは、素敵な才能です。

お金がない不幸も否定するつもりはありません。損得勘定は捨てるべきだと思いますが、それは自分がクレーンゲームで一通り遊んだあとです。最低限の景品もゲットできないなら、やっぱり辛いと思うんです。

私が言いたいのは、あるていど景品をゲットするまではクレーンゲームに夢中になり、景品に飽きたら、次のステップとして、景品の良さを見つけにいったり、人に施したりする楽しみ方を探しましょう、ということです。

私は大金持ちではありませんが、サイゼリヤで美味しいドリアを食べてきましたし、ユニクロで上質な服も購入してきました。アマゾンプライムビデオで、面白い映画やアニメも見てきました。次は高級車…と憧れる気持ちもありますが、でも、どんな高級車を手に入れたとしても、初めてスラムダンクを見た感動を超えることはないような気がしています。

だから、そろそろ、感動を感じやすい体質に変わる方向に全集中していきたいなって思ったんです。そのために必要なのが道徳と国語なのですが、これがビビるくらい身につかないので、学生時代からコツコツ磨いておけばよかなったなぁ、と思っています。

まとめ

道徳と国語が大切という話をしました。私の「人生はクレーンゲーム理論」によると、物質的な幸福には限界があるため、ある時点から、今あるもので精神的に満ち足りる方向にシフトしていく必要があります。物質的に満ち足りるための勉強が英語や数学であり、精神的に満ちたるための勉強が道徳や国語です。学生のうちから道徳や国語をコツコツ磨いておけば、精神的充足へシフトしたときに、大きなアドバンテージが得られると思うので、この記事でお勧めしました。

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