「謝罪人一年目の教科書」求ム

コラムの第65回。

忘れられない謝罪があります。

忘れられない、Kくんの謝罪

中学3年生の春。私たちバスケ部は、もうすぐ総体という張りつめた雰囲気の中、体育館でディフェンスのフォーメーションを練習していました。

ディフェンスの肝は助け合いです。バスケという競技では、一試合で100点近くの得点が入ることからも分かるように、圧倒的にオフェンスが有利とされています。1対1の場面では、ほぼ確実に突破されます。そのため、突破された後、近くの仲間がどれだけ素早くヘルプに行けるかが重要です。

同級生のK君は、どうしようもなくヘルプが苦手でした。その日もヘルプに遅れてしまい、監督の逆鱗に触れました。「やめ!やめ!」監督が練習を止めます。「おい、K!」「はいっ!」K君に詰寄っていく監督。「今の遅いやろが!」「すみません!」もう鼻と鼻がくっつく距離です。

うちの監督は当時30代前半で筋骨隆々。身長は180センチ超。横で見ていた私たちにも、とてつもない迫力が伝わってきました。うわぁ~、監督さん完全に怒ってもうてるで。K君大丈夫か…?。

私の心配をよそに、監督のボルテージは上がっていきます。「おらぁ!」これやばいやつやで…。「K!おまえは何を考えとんや!」鋭い怒号が飛びます。すると、K君がとても真剣な表情で、こういい返しました。

「何も考えてません!」

監督が「えっ?」。私たちも「えっ?」。あまりにも潔い謝罪に、場が静まり返りました。気持ちいいくらいスパッと言い切ったK君。あれほど怒っていた監督ですが「あかん、こいつには何言ってもダメや」と悟ったのか、「もうええわ、練習に戻れ」と言って、怒りが収まりました。

「なんてうまい返しなんだ」私は感心しました。私たちが誰一人としてヘルプできない状況を、K君は謝罪一つで切り抜けたのです。あの謝罪は忘れられません。言い訳をせず、心をこめて真っすぐに謝れば、こうも事態は丸く収まるのだと、中学3年生にして大事なことをK君に教わりました。

あの日、バスケ的なディフェンス力ではチーム最低だったK君は、精神的なディフェンス力でいえば、右に出るものはいませんでした。心の中で「ディフェンスに定評のあるK」と呼び称えました。

社会人は謝罪人

あれから20年。大人になった私はあらためて思います。「いかにうまいこと謝れるか」は、社会生活を送るうえで、めちゃくちゃ大事なスキルだなぁと。千田琢哉さんの「超一流の謝り方」の冒頭に、こんな一節があります。悲しいかな、本質をついていると思います。

出世すると偉くなってふんぞり返ることができると思っている人は多いが、それは大きな間違いだ。出世するということは、謝るということなのだ。出世するということは、頭を下げる機会が増えるということなのだ。

千田琢哉「超一流の謝り方」

上司に頭を下げるのが嫌だから起業したら、取引先にもっと頭を下げなきゃいけなくなった、という話も聞いたことがあります。偉くなるほど謝罪が増える。私たちに求められているのは「謝罪力」です。社会人である前に、一人の謝罪人なのです。

謝罪人には語彙力も必要

Kくんの必殺技「何も考えてません!」の威力は半端ないので、私はこの先ずっと使い続ける所存なのですが、残念ながら万能ではありません。たとえば、不祥事を起こした社長が「何も考えてませんでした!」と謝っていたら、引っぱたきたくなるでしょう。謝罪には語彙力も必要なのです。

最近で言うと、SOMPOグループの社長が「痛恨の極みであり、深く反省しております」と謝罪会見しており、およそ謝罪会見でしか聞かない語彙の数々に、大人の謝罪力ってすげぇ~という感想をもちました。ちなみに、痛恨の極みって何やねん。るろ剣の必殺技かいな、と思った浅学な私ですが、いちおう調べておこうと思い「痛恨の極み 意味」で検索したところ、おおむね次の回答を得ました。

「痛恨の極み」とは、残念の最上級を表す言葉である。主に自分が犯した過ちに対して用いる。「やっちゃいました、サーセン」のニュアンスがある。

一方、同じく残念の最上級を表す「遺憾」は、痛恨の極みとほぼ同等の残念度であるが、どちらかというと他人が犯した過ちに対して用いるケースが多く「いや、俺のせいじゃねーし」のニュアンスがある。

また、「痛恨の極み」と「遺憾」のどちらも単に「残念です」としか言っておらず、「ごめんなさい」の意味は含まれていない。大変申し訳ありませんでした、などの謝罪の言葉と併用すべきである。

つまり、「いやぁ…。やっちゃいました。僕のせいです。ごめんなさい」を大人の言葉で丁寧にいうと「痛恨の極みであり、深く反省しております」になるということでした。私の謝罪文ストックに追加しておこうと思います。あと、遺憾は使わないでおこうと決めました。日本語って難しいですね。

謝罪会見に意味はあるのか?

謝罪会見って、よくやられてますけど、よく考えると違和感があります。

たぶんですけど、大企業ともなれば、謝罪専門の文章作成担当がいるはずです。窮地を救っているという意味では某昆虫系単車ヒーローと同じですので「ごめんライター」と名づけたいと思います。そうなると、偉い人の謝罪会見は、ごめんライターが書いた謝罪文を読みあげるだけになります。そんな会見に意味はあるのでしょうか。

それに、どんなに誠意ある謝罪をしたとしても、聞いた側が「あやまってるし許してやるか」とはならないと思うんです。なんで謝罪会見すんのやろ?というのが長年の疑問でした。でも、「超一流の謝り方」に出てくる菓子折りの話を読んだら「あっ」となり、これが謝罪会見の答えか!と思いました。

菓子折りというのは渡してもそれほど感動されることはないが、ないと目立つものだ。

千田琢哉「超一流の謝り方」

つまり、謝罪会見をやったという事実そのものがめちゃくちゃ大事なんですね。謝罪会見をしたからといって「素晴らしい謝罪だった!感動した!」とはなりませんが、謝罪会見がないと「なんで会見せーへんねん!」と悪目立ちしてしまいます。消極的な理由ですが、納得させられました。

私は謝罪が下手な自覚があるので、こういう謝罪に関するイロハを、社会人一年目くらいの気持ちで学んでいきたいものです。もし「謝罪人一年目の教科書」みたいな本があったら絶対買います。

参考文献)

千田琢哉「超一流の謝り方」総合法令出版、2016年.

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