喫茶店でレベルアップした話

自分を変えたいと思ったとき、つい遠くに行きたくて手を伸ばそうとしてしまいますが、でも、小さくていいから、近くに一歩を踏み出してみることの方が、ずっと大切だったりします。その一歩は、他人から見ると日常から少しはみ出しただけ。でも、自分にとっては、偉大な一歩なんです。

先日、こんなことがありました。

日曜の朝のことです。とある喫茶店の前に立った私は「さあ!扉を開くんだ!」と勇気を振り絞っていました。それは普通の人ならスッと開ける扉なのですが、私にとっては、まるで長年石に刺さり続けた伝説の剣のように、ビクともしないもののように思えました。30年間近くずっと開けなかった扉だったからです。

その扉を認識したのは、小学校の登下校のときでした。学校に行く道の途中に、個人経営の喫茶店があったんです。まだ幼かったので、毎日横を通るたび「これ何のお店だろう?」くらいに思っていました。

小学校も高学年になると、どうやら喫茶店らしい、と分かるようになりました。何百回と見てきた店なので、さすがに気になります。でも、入れる気がしません。喫茶店ってなんか大人限定の場所って感じがして、敷居が高かったんです。それは中学生になっても、高校生になっても変わりませんでした。なんか入りづらい店だなあ、と思っていました。

大学生になり、東京で一人暮らしを始めました。都会の風は、唐突に自立心を後押ししました。自分はもう大人なんだ。喫茶店くらい一人で行けるんだ。そんな気持ちが急に芽生え、知らない店にも一人で行けるようになりました。すると、だんだん順序が逆転して、見知らぬ店にサラっと入れることが、立派な大人の証明だ、と思うようになりました。

そうなると気にかかるのが、幼い頃から目にし続けてきた、地元の喫茶店です。あれだけ横を通ったのに一度も入ることが出来なかった。その事実が、喉に引っかかった小骨のように、ずっと気になりました。「あれだけ行くチャンスがあったのに、一度も入店しなかった。つまり、私は行動力のない人間なんだ」そんな風に思えて、暗い気持ちになりました。

いつか行かねばならない。いつしかその喫茶店は、倒すと「行動力」が得られるモンスターになりました。たとえるならスライムです。私はスライムすら倒せていない冒険者なのです。スライムを倒さない限り、始まりの街から外に出られません。立派な人間になれません。

行動力を手に入れて、生まれ変わりたい。

子どもが生まれたことで、行動力への渇望が強くなりました。だって、子どもを色んなテーマパークに連れて行っているパパが嫌でも目に入りますし、自分と比べちゃいます。やっぱり、子どもには「行動すると人生楽しいよ!」って、背中で語りたいです。だから、どうしても喫茶店に行かなきゃって思ったんです。

ガチャリと古めかしい音がしました。押し開けてみると、何でもない扉でした。30年来気になり続けた喫茶店に、私はとうとう入店したのです。内心とても興奮していました。

店内には四人掛けのテーブル席が6個ありました。そのうちの一つに、おじいさんが座っていました。グレーの角刈り。シャツに紺色のベスト。常連でしょうか。尋常じゃなく大きな声で喋っています。相手は、離れたテーブルに座る丸顔のおばあさん。茶髪のショートヘア。60代くらいにみえます。ガラガラな店内に、常連とおぼしき老人が二人。なんで若者がうちに?という視線を感じます。すごいアウェー感。さっそく帰りたくなってきました。

いやいや。帰るわけにはいきません。私はここに「行動力」をゲットしにきたのですから。自分の中で「この未知の喫茶店で、コーヒーを一杯注文し、どんな味かを確認したらクエスト達成」と考えていて、クエストを達成したら行動力が得られるというルールが作られていたのです。コーヒーを飲むまで帰れません。

常連客の視線に耐えながら、奥の席に座りました。すると、店の奥に70代くらいの腰の曲がったおじいさんが見えました。エプロンをかけていたので、マスターだと分かりました。マスターはゆっくりと私のテーブルにやってきて、水を置いて言いました。

「ご注文は?どうしましょう?」

物腰やわらかい、優しい雰囲気のマスターでした。この店に初めて受け入れられた感じがして、少しホッとしました。そうだ、注文をしなくてはいけません。メニュー表を探そうと思ったところで、テーブルの真ん中にデカデカと敷かれた紙が目に入りました。

ケーキセットと書いてありました。ケーキの写真が3つ並んでいます。チョコケーキ。抹茶チーズケーキ。レアチーズケーキ。どれもすごくおいしそうです。しかもケーキとコーヒーがセットで630円。安い。この喫茶店、当たりなんじゃないだろうか。

そもそも、テーブルに目立たせて「ケーキセット」と書いてあるくらいですから、さぞケーキに力を入れているのでしょう。ここでコーヒーだけを注文するのは惜しい。私はテーブルの真ん中に貼ってあるケーキを指差して、クエストを実行しました。

「あの…、じゃあ、このケーキセットをください」
「あいよ。どれにする?」
「えーと、チョコレートのケーキで」
「はい、ちょっと待っててね」

そう言うと、マスターは店の奥に下がっていきました。ぬあー、楽しみです。30年ずっと溜め続けた期待。ずっと気になっていた店内。なんと、ケーキセットが売りの店だったとは! 知らなかった! しばらくして、マスターがやってきました。

「ごめん、チョコレートケーキ切らしてたわ」
「あ、そうですか。じゃあ抹茶チーズケーキで大丈夫です」
「あいよ」

なんと残念。売り切れです。チョコレートケーキは人気だったのかもしれません。たしかに写真が一番おいしそうでしたからね。食べてみたかったけれど、仕方がないです。またしばらくすると、マスターがやってきました。

「ごめん、抹茶チーズケーキもなかったわ」
「え、あ、そうですか。じゃあレアチーズで」
「あいよ」

まさか抹茶も売り切れとは。なんだか嫌な予感がします。すぐにマスターが戻ってきました。

「レアチーズも切れてた。ケーキなかった」

やっぱりな! おかしいと思ったよ、まだ朝の10時で、店の中ガラガラなのにチョコレートケーキが無い時点で、薄々そうじゃないかと思ってたわ! はなからケーキ用意してないんやろ! まあええわ。それはええとして、じゃあなんでケーキセットを一番目立つところに置いてんねん! おかしいやろ!

と、盛大にツッコミたくなったのですが、さすがに常連二人+初めての店というアウェー感の中でツッコむ勇気はありません。

「…コーヒーください」
「あいよ」

結局、最低限のクエストだけをこなして店をでました。コーヒーは美味しかったです。

店を出ると、見慣れた地元の風景が目に飛び込んできたのですが、かつてないほど新鮮に映りました。まるで海外旅行から帰ってきたかのような感覚。「久しぶり!日本!」と叫びたくなるこの気持ち。ただ喫茶店に入って、コーヒーを飲んで出てきただけなのに、いつもと違った景色が見えたんです。

これがレベルアップか。家に居ただけでは到底味わえない達成感。圧倒的な行動力の高まりを感じます。30年間ためつづけた経験値がドバっと体に流れ込んでくるかのようでした。たかが一歩。されど一歩。喫茶店巡り、おすすめです。

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