松子

自分のうかつさにうんざりした。

手のひらに小さなマメができていたからだ。それは右手を握ってグーの形にしたとき、ちょうど薬指の先が当たる辺りにあった。

普段なら何でもないマメだった。「ちっ、マメか」と軽く舌打ちして絆創膏を貼れば気にならない程度のものだ。

しかし、松葉杖で生活する人間にとって、手のひらは全体重を支える大黒柱である。マメは致命傷だった。

どうしてこうなったのだろう。私は三日前に受けた手術を思い返した。

街の大病院で左ひざの手術をした。前十字靭帯を修復するためだ。初めての全身麻酔から目を覚ますと、左足には大掛かりな固定具が装着されていて、動かすとビリッとした痛みが走った。

手術後、1日はベッドの上で過ごした。2日目には導尿の管が外れた。「車いすで移動していいよ」と医師が言った。

嬉しかった。車椅子を回す手に力が入る。病棟を一周したら息が切れた。手術で体力が失われたしまったのだ。

3日目にはリハビリ室にいた。松葉杖での歩行訓練をするためだ。

「松葉杖の使い方は大丈夫だね。じゃあ後は病棟を歩いて体力をつけてね」リハビリの先生が許可を出してくれた。

嬉しかった。松葉杖を握る手に力が入る。どこまでも行けると思った。病棟を一周したら激しく息が切れた。焦りが芽生えた。体力をつけたい。その足で屋上に向かった。

そこは完璧な歩行練習場だった。三十メートルほどの平坦な道があり、そよ風が心地よかった。植木には、春の訪れを告げるツツシが咲いていた。夢中になって松葉杖を動かした。

時計を見ると、一時間が経過していた。手にヒリつきを感じた。見ると、マメが生まれている。

ばかだった。

どこの世界に、手術してすぐ、一時間も松葉杖で歩く馬鹿がいるのか。そりゃマメくらいできるだろう。

私は無謀な男だった。

とぼとぼとリハビリ室に戻った。とにかく報告しなければと思ったからだ。先生にマメを見せた。こいつマジか、という苦笑いを浮かべられた。

「もしマメが潰れて痛むようなら車いすに戻るよね」先生は静かに現実を突きつけてきた。それは退院日が伸びるという意味だった。それだけは避けたかった。

これ以上マメを悪化させるわけにはいかない。治療を求めてナースステーションを訪れた。

「どうすればマメを潰さずに松葉杖の練習ができるでしょうか」

目の前にいた看護師さんに尋ねた。真っ黒な髪が初々しい、背の低い、新人の看護師さんだった。

「これはどうでしょう」

彼女はそう言って、粘着性のある、ラップのような素材で手を保護してくれた。

いや、あまりに薄いだろう。

ラップは瞬時に跡形もなくなった。三匹の子豚で言えば、藁の家くらい簡単に崩れ去った。私はナースステーションに戻り、別の看護師さんを探した。

「薄いラップはダメでした。もっと強いテープはないでしょうか」

金髪のショートヘアーが似合う、二十五歳前後の陽気な看護師さんに尋ねた。

「これならどうですかね」

彼女はそう言って、手のひらに絆創膏をペッと貼ってくれた。

いや、剥がれるだろう。

半刻も持たずに剥がれてクシャクシャになった。三匹の子豚で言えば、木の家くらい簡単に壊れてしまった。

「絆創膏はダメでした。もっと強いテープはないでしょうか」

四十代であろうベテランの風格の看護師さんに尋ねた。

「これはどうかしら」

彼女はそう言って、ガムテープより少し固いくらいの、紙テープを手のひらに貼ってくれた。

これならいけるかもしれない。

きっかり一時間で剥がれた。私はテープの残骸をゴミ箱に投げつけ、ため息をついた。レンガの家を建てたのにオオカミに喰われてしまった子豚の気分だった。

現実は童話のように甘くはなかった。あれからも看護師さんに豚のように尋ねたが「あの紙テープより強いものはないわ」と口を揃えて返されるばかりであった。私は諦めた。

翌日、声をかけられて振り向いた。髪を洗いに行こうと、タオルを持って、松葉杖で歩いているときのことだった。見ると、興奮した様子の看護師さんが居た。

「思いついたからちょっと待ってて!」

看護師さんは処置室に消え、何重にもしたガーゼとテープを持って現れた。ガーゼは木の家よりも弱そうだった。オオカミに喰われるビジョンが見えた。

するとどうだろう。看護師さんは、私の手ではなく、松葉杖の取手の方に、ガーゼを巻きつけたではないか。

えっ、そっち?

その発想はなかった。あっという間に松葉杖がミイラになった。

「どうかしら?」看護師さんは自信に満ちた顔をしていた。私はミイラ化した取手を握った。瞬間、これが運命の出会いであることが分かった。

「これは…。剥がれません!」

「やっぱり!」

圧倒的な機転だった。タオルがヒントになったと看護師さんは言った。

タオルと松葉杖を一緒に持っている私を見て、「そこにガーゼを巻けばいいんだ」と気付いたそうだ。

おそらく昨日帰った後も「どうしたらいいかしら」と考えていてくれたのだろう。

頭の片隅で私を心配し続けていたからこそ、タオルと杖のセットを見たときに、パッと思いつけたのだと思う。

看護師さんの心遣いに胸が熱くなった。

この新しい相棒に名前をつけようと思った。看護師さんの優しさが詰まった松葉杖に、素敵な名前を授けたかった。

素晴らしいネーミングが浮んだ。真っ白なガーゼに包まれた松葉杖。それはまるでアナと雪の女王のように美しい。

松葉か子(まつ ばかこ)と名付けた。

あとあと考えると「ばか子」では「松たか子」さんに失礼な感じがしたので、今は縮めて「松子」と呼び大切にしている。

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