一歳九か月の娘の可愛さを言語化して保存しないと気が狂う

娘が可愛い。気が狂いそうだ。

冗談じゃないくらい可愛いのだ。目の前にいる、この小さくて、愛らしい生き物の一挙手一等足を、じっくり観察できることにこそ、子育ての喜びはあると思う。

一歳九か月の子どもの可愛さを、瑞々しいまま真空パックに入れて、後生大事に保存したい。この可愛さが風化することに耐えられない。気が狂いそうだ。

どうしてみんな正気でいられるのだろう。

この可愛さ。異常だろう。どうにかして保存したい。ビデオに撮ってみたが、だめだった。二次元の画面の中で動く娘は、目の前に生で存在する娘の可愛さの百分の一も表現できていない。写真もだめだ。どうしたらいいのだろう。

そもそも可視光に頼って可愛さを保存しようという発想が間違っているのではないか。むすめの可愛さは目に見えるものだけではない。匂い。暖かさ。肌ざわり。重さ。声色。そのすべてが絶妙に調合されて可愛さが成り立っている。どれか一つの成分を持ってきたってだめなのだ。

だとすると、可愛さを物理的に保存することなど、不可能ではないか。

物理的に駄目ならば文章に書いて残すしかない。娘の可愛さを言語化するのだ。

いや、しかし、私にできるのか。言語化能力には自信がない。くぅ。国語力のなさを、いまほど悔しいと思ったことはない。だがやるしかなかろう。

「ぱぱっ、ぱーぱっ」部屋に入ると、娘がとびきりの笑顔で私を見上げる。飛び跳ねて、全身で喜びを表現している。ててて、と近寄り、私の足に絡みついてくる。「だっこーぅ」せがんでくる。「ごめんね、パパ足ケガしてるから」娘の頭をなでる。じんわりと汗をかいていて暖かい。細くて薄い髪は、地肌の熱を感じさせる。小玉スイカくらいの大きさが手にフィットする。

私が座って足を延ばすと、待ってましたとばかりに、娘は太ももによじ登り、私のうえに腰かける。ここがあたちの定位置よ、と言っているようだ。アルファベットでいえば「L」の上に「L」を同じ方向で重ねたようになる私たち。テトリスだと怒られる配置。親子にとっては絶好の配置。

ひざにのられると、娘の熱と重みが伝わってくる。軽いような、重いような。生き物であることが伝わってくる。娘はときおり顔だけを振り向かせ、私の表情を確認するように見上げてくる。この上目遣いは凶器だと思う。将来何人の男を狂わせるのだろう。いま一人確実に狂った。

私は娘のほっぺたを吸い込むようにほおずりする。「いやーいやー」と顔をそむける娘。いやと言いながら笑顔だ。またやってくれとばかりに振り向くので、リクエストにお応えしてほおずりする。この世で最も柔らかい物体、に顔を近づけることが何より幸せだ。ふんわりよだれの匂いがするし、よく見ると鼻くそだらけなのに、そんなのどうでもよくなるくらい可愛い。

長男が一歳児だったころ、よく妻が言っていた。「やってることおじさんなのに、どうしてこんなにかわいいのでしょう」全面的に同意する。長男のおならも、げっぷも、はなくそも、よだれも、何もかもが可愛くおもえた。むろん娘も同じだ。

子育て経験のない人が、この文章を読むと「狂っている」という感想を抱くかもしれない。おそらく私は狂っている。きっと全ての親が狂う。狂わないとやっていられない。こちとら一日になんべんもおしっことうんちを取り換えるのだ。本来はしんどい。でも、そんなのどうでもいいくらい可愛い。やばい。

発語がしっかりしてくると、可愛さは加速する。今日娘にごはんを食べさせていたら「じー、けー、ぽー」と左手をつきだしてきた。じゃんけんだ。舌足らずで言えていない。出した手だって変だ。チョキじゃない。人差し指と親指でピストルのような形をつくっている。ふつうのチョキが出来ないのだ。そのピストルで私のパーをチョキチョキしてくる。胸を撃ち抜かれるような可愛さだ。

となりの家の犬が鳴くと「わんわん!わんわんやー!」。救急者のサイレンが聞こえると「ピポ!ピポ!」最近は「きゅー、くー、しゃ」。私が寝ていると「おきてー!」。ずいぶんお話ができるようになってきたものだ。

この間、娘と一緒にピタゴラス(磁石で板をくっつけて遊ぶ立体パズル)で遊んでいたときのこと。私がつくった教会のような作品を、娘は悪気もなく手で崩壊させた。「こ、わ、れ、たー。こ、わ、れ、たー。こ、わ、れ、たー」とヒソヒソ声で壊していく様子が面白かった。いや、壊れたんじゃなくて、壊してるんやで。

娘の可愛さは尽きない。この感動を書いて残したい。言語化しきれないのが歯がゆい。みんなどうしているのだろうか。可愛い娘がどんどん大きくなっていく。手から砂金がこぼれおちていく気分だ。

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