東大合格生のノートはかならず美しい、は本当だろうか?

「東大合格生のノートはかならず美しい」という本が2008年に出版されてベストセラーになった。

当時十八歳だった私は「はたして本当に美しいのだろうか?」と疑問を持った。現役東大生の友人たちに頼み、彼らのノートを大量に見せてもらったことがある。

すごく刺激を受けた。写真でも撮っておけばよかったのだが、あほだったので撮り忘れた。覚えているうちに感想だけでも書いておこうと思う。

東大生のノート事情

東大生のノートは、たしかに美しかった。

最も衝撃を受けたのは、全国模試で四位をとったことのある友人が見せてくれた数学の演習ノートだった。ドカドカっと机に積み立てられた数は三十冊弱はあっただろうか。一ページに一問ずつ、規則正しく解かれている。どのページをめくっても丸っこい丁寧な数式が整列していた。きっと彼は頭の中も整理整頓されているのだろうと思った。「これで半分やねん」と言われてさらに驚いた。

だが、クソ汚いやつも一定数いた。

私が見てきた東大生の中で、とびぬけて成績が良かった者が二人いる。ハイレベルなテストで満点を取るのは当然。彼らにとって授業は生ヌル過ぎた。講義室の最前列で、厚さ八センチはあろうかという洋書の問題集を広げ、黙々と解き続けていた。修行僧のようだった。

彼らはそろってノートが汚かった。のたうち回ったミミズの方が、まだ文字に見えるくらいだ。アインシュタインの縮約記号など判別不能だった。よくこれで計算間違いしないものだと、あっけにとられた。ノートが汚いと天才感が凄い。ノートが汚くても賢いやつはいるというのは、大きなカルチャーショックだった。

最高峰のノートは綺麗だった

ちなみに、私は「ノートは綺麗にとるべきだ」と思っている。

理由は二つあって、一つは、私が日本で一番賢いと思った理論物理学者のノートが、パソコンで出力したのかと思うくらい整っていたからだ。

私は書道教室に六年以上通って学生十段を持っているのだけれど、その学者の文字は、比べ物にならないくらい達筆だったものだから、たまらなく憧れた。「最高峰の頭脳はノートの綺麗さも最高峰だ」という背中はデカかった。目指したいなと思わされた。

ノートを綺麗に書く行為のエンタメ性

ノートを綺麗にとるべきもう一つの理由は、もっと凡人向けだ。私みたいに勉強が苦手なタイプ向け。理論物理学者とか、東大合格生とか、そういう勉強が好きなひとの話じゃない。

「勉強きらいだな」「勉強おもしろくないな」と思っている人こそ、ノートは綺麗に取るべきだと思う。なぜなら、ノートを綺麗に書くことは、つまらない勉強を面白くするエンターテイメントになるからだ。

少し昔話をしたい。私が小学生のとき、同級生にM君という、面長の少年がいた。M君は学校で有名な「字の上手い子」だった。当たり前のように『なんとか書道賞』を取って、全校集会で表彰されるレベルの子。同じ鉛筆を使っているのに、トメハネに気品があった。

私はM君の美文字のファンだった。あんなふうに綺麗に書けたらどれだけ楽しいだろう。どんな練習をしているのだろう。M君を観察して、真似をした。文字の癖。書くスピード。同じ透明のソフト下敷き。6Bの三菱鉛筆。メタリックな鉛筆キャップ。真似できることは何でも真似をした。

「どうしてそんなに文字が上手いの?」と聞いたこともある。M君は言った。「家でたくさん書いてるからね」と。そこでハッとした。シンプルに練習量の差なのだと気づいたからだ。「この文字を綺麗に書こう」と集中した回数。それだけの違いだった。なんと単純なことだろう。

それからというもの、私は文字を書くことに没頭した。授業中のノートに紡ぐ一文字一文字が大切に思えた。この「う」は丁寧に払う。この「お」の最後は少し膨らみ気味に書く。おっ。ちょっとM君の文字に似てきたかも。授業の内容なんてどうでもよかった。ひたすらに美文字を追求した。

美文字を探求するのは、ものすごく楽しかった。

宿題だってすぐにやった。真面目だからではない。文字を綺麗に書きたいから。英単語の書き取りも夢中でやった。アルファベットを綺麗に書く作業は新鮮だった。文字を綺麗に書こうとしている間は集中していられた。集中することは、楽しさとイコールだった。

美文字の追求をやめた日

ある日、英語の先生が、私のノートを見て言った。「みんな見て。こんな綺麗なノートは無いわ。こういう風にノートをとるのよ。模範だわ」先生は絶賛だった。自分の授業をこんなにも真剣に聞いてくれた生徒は初めて、くらいの興奮ぶり。

(違うんです)

私は恥ずかしかった。先生の話なんて一つも聞いてやしないのだ。ただ綺麗に文字を書くのが楽しいから、書いていただけなのだ。むしろ一番授業を聞いていないのだ。

(ごめんなさい、違うんです)

先生が絶賛するほど、当時の私は申し訳なくなった。授業をないがしろにしている証拠であるノートを、先生に勘違いされて褒められることほど居心地の悪いことはない。

高校に入るころには、美文字の追求を辞めていた。それは罪悪感だったのかもしれない。憧れていたM君と違う学校に進んだからかもしれない。ただ単にマイブームが過ぎたのかもしれない。理由は分からない。とにかく辞めた。

文字を書くのが楽しい→勉強量が増える→賢くなる

だけど、今になって分かることがある。『美文字の追求は、勉強のモチベーターとして優秀だった』ということだ。

美文字の追求をやめたころから、急激に勉強が面白くなくなった。勉強にエンタメ性を感じられなくなった。それと連動して、成績はスカイダイビングくらい急落下した。

当時は美文字と成績を結び付けて考えなかったけれど、よくよく考えれば、明らかに私の勉強のモチベーションは美文字に支えられていて、勉強時間を確保する役に立っていたのだ。

「勉強の内容なんてどうでもいいから美文字を書くだけだ」なんて思っていたけれど、数をこなすことで、しっかりと勉強の中身が頭に入っていたようだ。

ノートを綺麗にとれば頭が良くなるという説はただしいと思う。世間一般に言う「綺麗なノートは頭が整理されるから」という理由ではなくて、別の理由で。つまり、

「綺麗にとろうとして集中することで、勉強という作業におもしろみが生まれ、シンプルに勉強量が増える作用によって、頭が良くなる」

という理由。これが私の実感であり、途中でやめずにノートを綺麗に書き続ければもっと賢くなれたのになあ、と今更ながら後悔することがよくある。

まとめ

「東大合格生のノートはかならず美しい」は本当だろうか?と考えてみた。ぶっちゃけ、かならず美しい、は言い過ぎだと思う。でも割合として美しい人は多かったし、何より最高峰が美しすぎた。

「ノートが美しい」と「頭がいいこと」には、きっと相関がある。ノートを綺麗に書こうとする行為には、頭を良くする作用があると思う。

振り返ってみると、私の場合、ノートを綺麗に書くと、勉強のモチベーションがあがって、勉強量が増えて、賢くなる、という作用があった。ノートを綺麗に書く気持ちよさに身をゆだねる感じだ。

「分かる~」と思ってくれる人は少ない気がするけれど、こういう考え方もあると知ってもらえると嬉しい。

ところで、十年ほど前、私が憧れたM君が逮捕される、という衝撃のニュースを耳にした。あの丁寧な美文字を書く少年がなぜ…。

M君が犯罪を犯すイメージがどうしてもわかない。きっと事情があるのだろう。今も丁寧な文字を書いているのだろうか。あるいは荒れた文字になってしまったのだろうか。

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