太宰治さん著「太宰治の正直ノオト」の感想

太宰治さんが一年間連載されたエッセイ集(?)「太宰治の正直ノオト」を読みました。

まず「なんじゃこれ」と思いました。正直ノオトとは、なんぞや。パラパラとめくると、どうやら、エッセイらしい。

太宰さん、のっけから重たい『はしがき』をぶつけてきます。この連載を始めようと考えた理由が書かれているのですが、それがずばり

「生きていようと思ったから」

なのです。なんかこう、ずっしりときますね。暗いエッセイなんだろうな。読むのやめようかな、でも、私の大好きな又吉さんが太宰さんをおすすめしているので、読んでおかないと、という義務感から、読み進めました。

予想通り、暗くて、難しくて、気力のいる本でした。頑張って読みました。

概要

太宰さんが、小説論を中心に、あれこれやと思索した82編のエッセイ集。

自分には良心がない(と思い込み)、生活に自信がないことを嘆き、しかし、文学にだけは自信たっぷりで、松尾芭蕉の俳句をけなす。

そんな自分は天狗だと反省し、蟹が横っ飛びする日記を褒め、作者と作品は切り離して考えろと急にキレる。

そうかと思えば、こんなエッセイを書いている時点で自分は作者と作品を切り離してなかったりと、ブレブレな太宰治が楽しめるエッセイ。

前半の67編までは、詩的で、よく嚙み砕かないと読めない文章だが、『悶々日記』以降は嘘のようにスラスラと読みやすくなる。

太宰治著「太宰治の正直ノオト」青龍社(1998年).

感想

手を出すのが早かった

純文学が苦手です。

起承転結もなければ、つかみどころのない文章を、ポンと投げ渡されて「ほれ好きに解釈してみなさい」と言われる、あの感じ。背筋が凍ります。いますぐ床に手をついて詫びるから勘弁してほしくなります。要するに、読解力がないのです。

自慢じゃないですが、エンタメ小説しか読めません。それなのに、どうして太宰治に手を出してしまったのか。ましてや小説よりさらにポエム感強めのエッセイを読もうとしてしまったのか。意味不明です。

そんな私が本書を読むとどうなるか。「どゆこと?」の連発。ほとんど何を言っているのか分かりませんでした。

どれくらい分からなかったかというと、82編中50個に「?」マークが付きました。これは私がエッセイを読むときに、各話に1個ずつ、独自に書き込む記号です。

「◎」はブログに絶対書きたいくらいおもしろい。「〇」はかなりおもしろい。「△」は何かしら心に引っかかるものがある。「×」はつまらない。「?」は意味が分からない。

普通にエッセイを読んでいて「?」マークが付くことはありません。本書は「?」が過半数を超えました。ほんとうに「何言ってるの」状態でした。おのれの読解力のなさ。涙が出そうになりました。

又吉さんのように、行間を丁寧に追えるひとだったら、すごくたのしいんだろうと思います。なにぶん私には早すぎた。この文豪は私の手に負える代物ではなかった。またいつかレベルアップして再挑戦したいと思いました。

といっても、なかには私にも分かるくらいやさしく書かれていて、なおかつグッとくる文章もありました。32編については、私なりに解釈ができたかな、と思います。

文学のためのわがまま

裕福な家庭に生まれた太宰さんは、こんな自分がいい暮らしをしていいはずがないと、あえてあばら屋に住んでしまうアウトローな方でした。

そのうち、ほんとうにお金がなくなり、家族に何度も無心をして煙たがられるなど、金銭的に困った状況に陥ります。

そんな状況にあって、太宰さんが考えたのは、お金よりも大事なことがある、ということでした。『金銭について』では、

ついに金銭は最上のものではなかった。

と書き出し、愛とか、そういったものが大切であると感じられているようでした。

太宰さんの金銭感覚について、特に私が印象に残っているのは、『わがままということ』に出てくる

文学のためにわがままをするというのは、いいことだ。

の部分です。この「わがまま」は二〇円、三〇円のわがままとされており、具体的に何を指すかは明かされませんが、少々のお金が絡むことであることが分かります。

お酒を飲むとか、旅に出るとか、おいしいものを腹いっぱい食べるとか、そういうことだろうと推測できます。プチ贅沢、のことですね。

どうして印象に残ったかというと、「わがまま」と言い切ってしまうのが潔くてかっこいいなあ、と思ったんです。

私だったら、「これは人生への投資だから」と言い訳をして、旅行やコンパに行くと思います。

「投資」という耳触りのいい言葉を使って、贅沢に意義を与えて、正当化しようとする。それって後ろめたさを隠そうとしているわけで、ちょっと卑怯です。

太宰さんは正々堂々「わがままだ」と言っています。

お姉さんに煙たがられながらお金を借りて(たぶん返さない)、それを小説のネタになる「体験」に使うのでしょう。「役に立つから」と言い訳せず、「これはわがままなんだ」と割り切っている。すごくかっこいいです。

この言葉が頭に残っていたのでしょうね、今日、スーパーに行って、お菓子を買おうとしたときのこと。

いつものように「カンデミーナ」というグミを買うつもりだったのに、ふと、「文学のためにわがままをするというのは、いいことだ」を思い出しました。

すると冒険心がわいてきます。わがままをしてみたくなっちゃいます。なにごとも経験。いつもと違うお菓子も買って、贅沢しちゃおうぜマインドになっていく私。お菓子コーナーでワクワクしている中年男。怖いですね。

結局、カムカムはじけるラムネ、のような名前の謎のソフトキャンディーを購入しました。初。サンマルクカフェ監修のチョコクロワッサンキャンデーなる不思議な飴も買いました。これも初。

だから何だよ、お菓子買っただけじゃん。と言われてしまうと、それまでなのですが、いやいや、でも、ちがうんです。

私のなかで、マンネリ化していた行動パターンが、一部でも切り替わったのは、大きな変化。たとえ新しいお菓子を買うだけでも、行動力が増したように思えたのです。

分からないなりにも、太宰さんを読んだことは、人生の糧になっているんだな、と実感するできごとでした。

文学作品と人物を切り離す

このエッセイの中で、太宰さんはたびたびキレます。

何にキレるかというと、文学作品と作者を結び付けて考えようとする輩が多すぎる、ということにキレるのです。文学作品は独立して鑑賞するものだ、と強く思っているからです。

『書簡集』では、小説全集に書簡集(私的な手紙)が同伴される風潮が嫌だと愚痴ります。

作家の不用意極まる素顔を発見したつもりだろうが、そんなの平俗な生活記録に過ぎないのだから、小説そのものと結びつけるのはナンセンスだ。くだらない。と太宰さんは考えます。

『感想について』では、まるい卵も切り方ひとつで四角くなる、という秀逸なたとえを交えつつ、よくも、感想などと!と、感想にキレます。

何の感想かは明かされません。おそらく心無い人に小説を貶されたんだろうと思います。今風に言えば炎上したのでしょう。

そういった感想に対する怒りを収めるための方法は一つだけだと太宰さんは言います。

たいへん簡単である。自尊心。これ一つである。

まわりの意見に振り回されず、自分が良いと思っていればそれでいい、と言っている気がします。自分の作品を信じる心。それさえあれば心を防衛できる。

ちなみに、太宰さんは悪口に対して怒っているのだと思って読んでいたのですが、作者に讃辞を贈ることにも拒否反応を示しています。

褒めてもだめなんかい。

文学作品を愛しているからこそ、作者抜きで評価してほしい、という強い思いがうかがえます。

『マンネリズム』でも、感想への嫌悪を表します。なぜ感想がダメなのかを説明する回です。感想は、あくまで断片的な言葉であるからダメなのだそうです。

作家たる男が断片ばかり小出しにするのは、ほめられたものじゃない。小説は小噺ではない。感想ではなく小説を書かなければだめだ、と考えているようです。

これはちょっと耳が痛い話でした。だって、ブログって、感想そのものじゃないですか。

たしかにブログは小説みたいにまとまった思想を提供するものではありません。しかし、断片的にでも感想、つまり、ブログ記事と言う形で、考えた痕跡を残していくことは、人生にとってプラスではないでしょうか。

少なくとも私は思っているので、それをばっさり否定された感じがして、悲しくなりました。

太宰さんにすれば、否定しているというニュアンスよりも、もっと上を追求しろ、がんばれ、と励ましている感じなのかもしれないですけれども。

いやいやいやいや、ちょっとまってください、太宰さん。

あなた、感想を否定していますけど、エッセイ書いちゃっているじゃないですか。めちゃくちゃ感想書いちゃってるじゃないですか。ロシア文学者のチェホフ本人と作品を切り離せないって言ってるじゃないですか。…。

そうなんです、太宰さん、けっこうブレブレなんです。悩み多き人だし。コンプレックスの塊だし。思想強いのに、揺れ動くんです。

太宰さんほど賢いひとでも、こんだけ揺れるんだよってところを見せてもらえるのは、ある意味、安心します。自分もしょっちゅう揺れ動きますから、これでいいんだと思えて、ほっとします。太宰さんが描く不幸は、読者の自尊心を高める作用がありそうです。

十年を棒に振った自信作『晩年』

『『晩年』について』では、太宰さんが十年かけて書いた、珠玉の短編集『晩年』にかける思いが語られます。

文豪の筆力を駆使して、苦労した、をいろんな風に言い換えてくるのが、おもしろかったです。

市民と同じさわやかな朝飯を食わなかった

私はこの本一冊を創るためにのみ生まれた

百篇にあまる小説を破りすてた。原稿用紙五万枚。のこったのは六百枚にちかい

『晩年』を読みたくなりますね。キンドルで買っちゃいました。

それにしても、本を一冊書くのに原稿用紙五万枚を費やするなんて、狂気です。ブログに換算してゾッとしました。

私のブログが一記事平均2000文字くらいなので、原稿用紙五万枚をブログにすると、約一万記事。

うわあ。えげつない。

私まだ三百記事も書いてないのに。そりゃ一万記事も書けば文章は上達するでしょう。文豪と言われる人は、努力量が桁違いだったのですね。

たまにいいこと言う

基本的に後ろ向きなことばかり言う太宰さんですが、たまに、生きる活力がみなぎるような、素敵な文章をサラリと差し込んできます。

『感謝の文章』には感激しました。

窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。

私なりに解釈をすると、「窓ひらく」は新しい価値観を与えてくれること、「好人物の夫婦」は家族愛や道徳観。

「出世」は人間成長、「蜜柑」はおいしいもの。

「春」は苦労の結実、「結婚まで」は恋愛。結婚後はダメと暗に言っているのがおもしろいですね。

「鯉」は…何でしょうね、「あすなろう」は未来への希望、といったところでしょうか。

文章の極意

印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。

太宰さん曰く、小説の極意は、自分が受けた印象を、正確に書き表すことに尽きるのだそうです。言い換えると、作為は要らぬ、ということです。

恰好をつけて芸術っぽく脚色することはダサいのです。印象に敏感になり、表現したい現実をムキになっておいかけるからこそ、そのムキっぽさが面白くなるのですね。

これは小説だけでなくブログにも通じるなと思いました。

ブログを書き始めてもうすぐ一年になります。最近ようやっと分かるようになったのは、ブログ記事には「面白いと思ったエピソード」を最低一つは入れないとだめだ、ということです。

いい記事には非凡なエピソードがあります。

つまり「私はここをおもしろいと感じたのです」という印象がコアになる。その印象が正しく伝わるように、丁寧に情景描写をして、フリをしっかり入れる。私のナチュラルな感じ方に読者を誘導して、意外性で落とす。

「おもしろい」と印象を受けたエピソードは、正確に伝えることさえできれば、おもしろい記事になります(と偉そうに言ってみます)

これをズバリ一言でいえば、「印象の正確を期する」だと思います。

千原ジュニアさんがおもしろく話すコツについて聞かれたれときに、同じようなアドバイスをしていました。

面白いと思った情景を、読者の頭のなかに映像としてピッタリ同じものが浮かぶように、丁寧に正確に伝える。

又吉さんも、事実をどこまで編集して伝えるかという文脈で、「月と散文」の中に同じようなことを書いていたと記憶しています。

文章の極意は、印象の正確性である。ゆめゆめ胸に刻みたいと思います。

まとめ

太宰治さんのエッセイを四十%くらい読めたので紹介しました。難解ですが読む価値はあったと思います。

体験のためにわがままをすること、作家たるもの断片的な感想ばかり書いていてはダメなこと、『晩年』は良い作品であること、感謝でいっぱいの小説こそ不滅であること、文章の極意は印象の正確性であること、などを学びました。

また何十年後かに、読解力を培って再チャレンジしたくなる本でした。

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