肉野菜炒めをつくるたびに思い出すこと

お坊さんのつくる肉野菜炒めは旨い。

大学時代の友人がお寺の息子だった。音読みすると「お坊さんぽいな」と感じる名前以外は、ごく普通の青年である。

彼は髪を長く伸ばしていて、いつも英語がプリントされたスエットを履いていた。家にお邪魔すると、フローリングのおしゃれな一人部屋が広がっていた。

なんだ、和の欠けらもないじゃないか。四畳半にちんまり座り、千利休のように茶を飲んで暮らしているのを期待していたのに。肩透かしをくらった気分だ。

うーむ、仏教味があるとすれば整理整頓されているくらいか、などと考えながら不躾に部屋を見渡していると、本棚に目が止まった。そこにはみっちりと仏教の本が詰まっていた。

「お寺の住職になるには試験があるんよ」と彼は言った。高校生のころから仏教の教科書を使って勉強していたのだという。

「お経とか唱えられるん?」と訊いてみたら、お経がスラスラと口をついて出てきた。色白でほそみの見た目とは対照的な、腹に来る野太いお経だった。そのギャップが修行の成果っぽくて恰好よかった。

ああ、やっぱりお寺の子なんだ。よく観察すると、彼の思想や行動には、隠しきれない仏教感がある。いつか出家して家業を継がなければいけないからこそ、一生懸命に俗世を楽しんでいたのかもしれない。

彼はいじられキャラだった。きつめの九州弁を、仲間によくいじられていた。どんなに強くいじられようと、彼が怒ったところを見たことがない。人一倍おだやかな男だった。きっと仏教の教えが効いていたのだろう。

そんな彼のつくる肉野菜炒めは絶品だった。「野菜の甘味がおいしいと」と彼は言った。塩、酒、味の素、だしの素。これだけである。お寺の子らしい素朴な味付けだ。しかし旨い。たまねぎ、人参、キャベツでこんなに甘くなることを初めて知った。

野菜に火が通ると、彼は西友で買ってきた安い豚肉を入れた。ジャー!と音をたてて、香ばしい匂いが立ち込める。「お寺なのに肉食べるの?」私はそこが気になった。「そりゃ食べると。うまいもん」と彼は言った。いいところは取り入れる、柔軟な仏教徒だった。

彼が亡くなったのは、肉野菜炒めの日からおよそ二年後のことだった。

「〇〇が事故にあった。すぐに病院に来てほしい。…ショックを受けるかもしれない」と友人から連絡が入った。

血の気が引いた。悪い想像が頭を駆け巡る。自転車を飛ばして病院に向かった。たのむ無事でいてくれ。歩けなくなるほどの大けがだったらどうしよう。病室に案内されると、彼は人工呼吸器に繋がって眠っていた。

一見するとひどい怪我には見えなかった。暴走した車に撥ねられたのだ、と友人から説明があった。「首を痛めていて・・・、かなり失血したらしい」沈痛な言葉に、ようやく事態の重大さを飲み込めた。それから彼は目覚めることがなかった。

昨日、ひさびさに肉野菜炒めを作った。フライパンで野菜を炒めるときは、かならず彼の顔が浮かぶ。「野菜の甘味がおいしいと」の言葉を思い出し、玉ねぎが飴色になるまでじっくり炒める。ここをサボると甘くならない。何度も作ってきたから、私の肉野菜炒めは彼の味に近づいていた。

もうすぐ二歳になる娘に肉野菜炒めを食べさせた。「にく!」「にんじん!」と指差しながら、むしゃむしゃ食べた。娘もこの味が好きなようだ。お寺の子直伝のスペシャル肉野菜炒めなのだから当然だ。いっぱい食べて、やさしい良い子に育ちますように。

いろんな願いがこもった、特別な肉野菜炒めである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました