東野圭吾さん著「手紙」の感想

東野圭吾さんの「手紙」を読みました。

はじめに

はじめて「手紙」を読んだのは高校生のときでした。

本屋にいく父に便乗して、ピンク色のカバーの文庫版を手に取り、父の買い物カゴにひょいと忍び込ませたのを憶えています。

山田孝之さん主演で映画化された時期で、本屋さんに平積みされていたんですよね。

いやあ、衝撃でした。物語ってこんなに力があるの!?とびっくりしてしまうほど、おもしろかったんです。

東野圭吾さんの作品は、あまり本を読んでこなかった私のような高校生にもすらすらと読みやすいものでした。東野さんの意図するままに感情が誘導されて、涙腺は破壊し、ラストシーンはボロ泣きです。

「一番好きな小説って何?」と訊かれたら、二十代後半くらいまではずっと「手紙」をあげていた気がします。それくらい感動的だったんです。

大学生になってからも読みなおしたり、映画版を見たりしました(小説と全然ちがうやん!と衝撃を受けました)。

大好きなだけにストーリーもしっかり覚えていて、大人になってからも、図書館で見かけるたびに「昔読んだな〜、面白かったな〜」と観賞に浸っておりました。

しかし、ふと疑問に思ったのです。青春時代に得られた瑞々しい感動が、今も同じように感じられるものなのだろうかと。

最後に読んでから十年以上がたっています。社会人になり、結婚し、子どもも生まれました。物語の感じ方が変わっていても、なんら不思議ではありません。

一番好きだった小説が、ときを経てどう変わっていくのか。検証してみようと思いました。

あらすじ

「殺人犯の家族」というレッテルを貼られた青年・武島直貴が、力強く生きようとするお話です。ひたむきに努力する直貴は、進学・恋愛・音楽の夢・就職と、何度も希望をつかみかけますが、殺人犯の兄・剛志から送られる「手紙」が邪魔をします。「殺人犯の家族だから」という理由で差別され、ことごとく絶望を味わうのです。この世から差別は無くなることはありません。厳然とした差別の存在する世界で、どう生きるべきかが問われる作品でした。

東野圭吾著「手紙」毎日新聞社(2003年).

感想

※ここから先はネタバレを含みます。

差別は無くならない

久々に読んだ東野さんの「手紙」。青春時代と同じ感動が得られたかと言われると「感動とは違うけれど、違った味わいがあったな」というのが率直な感想です。

違う味わいの前に、まずは高校生の私が感じた「瑞々しい感動」が何だったかを振り返ってみます(ちゃんと言語化していなかったので、今回改めてブログに書けてよかったです)。

真っ新だった高校生のときは、主人公の武島直貴に感情移入していました。「殺人犯の家族」という理不尽なレッテルに振り回される青年の気持ちによりそい、希望を垣間見たり、絶望に落とされたり、ジェットコースターのような感情の起伏を楽しんだのです。

「どうか直貴に幸せになってほしい!」と願いながら読むのですが、「殺人犯の家族」への差別はひどく、なかなか幸せになってくれません。もどかしい展開が続きます。直貴はいつ救われるんだ、とモヤモヤしたところに、ガツンと頭を殴られるような衝撃を与えてくるのが、この一文です。

差別や偏見のない世界、そんなものは想像の産物でしかない

そんな!それじゃあ直貴が浮かばれないじゃないか!と、高校生の私は腹を立てます。直貴のことを分かってくれる人々に囲まれて、殺人のことなんて関係のない世界でハッピーに生きてほしい、という私のお花畑な幻想は、無残にも打ち砕かれたのです。「現実の差別はなくならない」ということを、しっかり頭に叩き込まれた瞬間でした。

「多様性が大事だ」と言われる世の中になりました。「多様性を尊重して、誰もが居心地よく、ポテンシャルを発揮して、企業の経済価値を高めよう」。「無意識のバイアスを認識して、偏見をなくそう」。世界は差別を減らす方向に動いています。

それはとても好ましいことだと私は思っているのですが、しかし根っこのところで差別は無くならないとも感じています。誰もが「自分は面倒事に関わりたくない」という思いを持っている以上、偏見や差別は残るでしょう。「手紙」を読むと、他人の色眼鏡に干渉できない歯がゆさを感じます。

差別にもみくちゃにされた直貴(と気持ちを共有しながら読んでいる高校生の私)は、長い長い産道を通っているような苦しみを味わいます。感情が抑圧されるほど、解放されたときのカタルシスは大きくなります。ラストの解放感は見事でした。

差別という難しい状況では、誰もが手放しでハッピーにはなりません。みんながハッピーなんて嘘くさい。「手紙」では、差別のある世界でそれでも生きて行かなければならないのだから、人間との繋がりを一本ずつ増やしていくしかない、という結論を導きます。道を模索するしかないのです。

この作品のテーマは「社会的な死からの生還」。それはとても苦しい工程なのですが、「正当に苦しむこと」を受け入れた直貴は、どこか清々しく、心を打つものがありました。

自分のなかの罪悪感に気がづいた

さて、大人になって「手紙」を読み直して一番驚いたのは、主人公の違いでした。高校時代の私は、直貴に感情移入をして「こんなつらいレッテル背負って可哀そうだなあ」と思いながら読みました。しかし今回は兄の剛志が主人公に思えました。殺人犯に感情移入をしたのです。

ちゃんと書いておくと、私は誰かを殺害したことはありませんし、殺意を抱いたこともありません。しかし、自分自身を殺害しようと考えたことがあります。数年前の話です。ままならない生活に苦しみ、ノイローゼになり、生きていくのに疲れてしまいました。今も心療内科に通っています。

自分は被害者なのだと思っていました。私がノイローゼになったのは、誰が悪いというわけではありませんが、そのような状況に追い込んだ世界を呪い、自分は世界の被害者なのだと考えていたのです。いえ、そう思い込んでいたのですが、本当は違ったのです。私は加害者でもあったのです。

もしあのとき、私が自死を選んでいたら、残された家族に「夫が自殺した妻」や「父親が自殺した子ども」というレッテルを背負わせることになっていました。そういう意味で私は加害者(候補)なのです。

いえ、レッテルを背負わせないまでも、私が精神的に不安定になったことで、いろんな人に迷惑をかけました。候補でも何でもなく、加害者だったのかもしれません。

武島剛志さんの目線を借りることで、家族への罪悪感が浮き彫りになります。本を読みながら、自分の心の底をのぞいているような感覚がありました。

私は被害者であるだけではない。加害者としての罪悪感にずっと苦しんでいたのだ。自分は赦されたかったのだ、と分かりました。

自分のなかの罪悪感にはっきりと気が付きました。こんな気持ちになるなんて、手紙を読み返すまで、想像だにしていませんでした。

殺人犯の武島剛志側に立って読む「手紙」は、それはもう辛いものでした。直貴が苦しむたび、「ああ、私はこんな苦しみを妻と子供に背負わせてしまうところだったのか」と胸が痛むのです。自分の業の深さを突き付けられて、吐きそうになりました。何度、本を閉じてしまおうと思ったことか。

しかし逃げてはいけないと思いました。目を逸らしてはいけません。私は向き合わなければならないのです。この罪悪感と。自死を選ぼうとした過去と。ノイローゼとはいえ、家族を手放そうという考えが頭をよぎったあの悲しい日々と、折り合いをつけねばなりません。

「もう、これでいいと思う。これで終わりにしよう何もかも」「お互い、長かったな」

これは直貴が被害者の家族からかけられた言葉です。殺害された事件を許すことはできません。許すことはできないけれど、ずっと憎しみ続けるのも辛すぎます。十分に悲しんだら、終わりにしてもいいのかもしれません。私の悲しい過去も、許されないかもしれませんが、いつか時間が経てば、終わりなる日がくるかもしれません。

違うよ兄貴。あの手紙があったからこそ。今の自分がある。手紙が届かなければ、苦しむこともなかっただろうが、道を模索することもなかった。

あるいは、あの悲しい出来事があったからこそ、今の私があるのかもしれません。自死を考えてしまうくらい悩むことがなければ、いまほど家族と本気で向き合うこともなかっただろうと思います。かけがえのない家族を、これからもっと幸せにする道を模索し続けたい。あの出来事によって、良い変化が私の中に置きました。もしかすると、許される道があるのかもしれません。

スッと解決することなんてないのでしょう。しかし、終わらない悲しみもまたないのでしょう。「手紙」を読んで学んだのは、そういうことだったのです。差別や偏見。無くならない理不尽があるとしても、人間関係を一本ずつ繋いでいけば、いつか折り合いはつけられるのだ、と思えるようになりました。

おわりに

「また青春時代のように感動できるかなあ(わくわく)」という軽い気持ちで読んだ「手紙」は、どでかい爆弾となり、私の潜在意識に根差した罪の意識をドッカーンと爆破してくれました。罪悪感は粉々になっただけで、まだそこら中に散らばっていますが、いつか消えてくれると思います。

ふつうの人は直貴に感情移入して「ええ話やなあ!」と感動できると思います。私のように、過去にあやまちを犯してしまった人は、武島剛志の立場にたって「これはオレのアナザーストーリーや…」と、罪悪感に向き合うことができるでしょう。

ずっと自分を責めていたんだ。自分を許してはいけないと思っていたんだ。この気持ちを発見することで、少しだけ楽になれた気がする、貴重な読書体験でした。

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