中山七里さん著「翼がなくても」の感想

中山七里さんの小説「翼がなくても」を読みました。

はじめに

私が中山七里さんという作家を知ったのは、有隣堂さんの公式ユーチューブがきっかけでした。「職業作家の1日ルーティン」を見てみよう、というテーマの動画があったので、「ふむふむ、どんなもんかいな」と気軽に覗き観てみたのです。度肝を抜かれました。

作家って、こんなにバケモノなのか・・・。ここまで生活を捧げて書いているのか。衝撃でした。すごいので、まだ観ていない方は、ぜひ以下のリンクからご覧ください。作家って食事をしなくても生きていけるんです。

「カロリーの摂取」よりも「活字の摂取」に重きをおいている中山さんを見ていると、人間の生存本能とは何なのか疑問がわいてきます。良い意味でネジがひとつもふたつも外れている。そんな人間がどういう文章を紡ぐのか、とても興味が湧きました。

本来なら代表作から読むべきなのでしょうが、私はたまにジャケットを眺めて読みたい本を決めたくなるときがあります。今回はまさにそれで、中山さんの著作の背表紙をザーッとながめて、明るい色の、読後感が晴れ晴れとしそうな本を選びました(他の本は暗めのミステリーっぽさがありました)。

帯をみると「感動の声 続々!」「どんでん返しの先に涙のラストが待つ 切なさあふれる傑作長編ミステリー」とあります。どうやら女性アスリートが障害を抱え、再生する物語のようです。救われるラストだといいなあ、食事シーンはあるのかな、など、いらんことを考えながら、読み始めました。

あらすじ

陸上二百メートル走のプロ選手である主人公・市之瀬沙良は、幼馴染の相良泰輔が運転する車に激突され、自身の存在価値である左足を失う。どん底を味わった沙良が、障碍者アスリートとして復活するお話。

中山七里著「翼がなくても」双葉社(2017年).

感想

希望ほどタチの悪いものはない
命よりも大切なものを理不尽に奪われた人間が、生きる希望をみつけたら、たとえそれが絶望よりもつらい希望であったとしても、しがみつくよね、そりゃ。でも、それって幸せなのだろうか。

というのが、本作の主題だと感じました。障碍者アスリートの復活劇を通して「希望というもののタチの悪さ」を描いています。

市之瀬沙良にとって「命より大切なもの」は足でした。西端化成陸上部に所属し、日本九位の記録を持つ沙良は、走ることは誰にも負けないけれど、走ること以外には何の取り柄のない人間です。走ることに振り切った人生。そんな彼女が足(存在価値)を失う。どれほどの絶望でしょうか。

しかも足の奪われ方が実に理不尽です。幼馴染が居眠り運転。事故にまきこまれる形で、左足を失います。その幼馴染というのが、過保護な母に守られた引きこもりで、謝罪のひと言もありません。しかも無免許。無免許がゆえに、刑が軽くなるという、法律の穴があります。賠償金も払われない。つまり、ただ理不尽に足を奪われ、何も残らない状況なのです。

その後、幼馴染が亡くなるというミステリー展開がありますが、その謎解き要素は、まあ、おまけみたいなもので。この作品の良さを味わいたいなら、ミステリーに期待するのではなく、苦悩しながらも困難を乗り越えようとする沙良の健気さに目を向けるべきかなと思います。

さて、命より大切な足を理不尽に奪われた沙良は、生きる希望を見つけます。パラリンピックです。競技用の義足を付けた男性ランナーが、沙良のベストタイム(23.64秒)よりも速く走る姿を目の当たりにし、沙良は「これだ!」と衝撃を受けるのです。もう一度走れる。沙良にとっての、何よりの希望でした。

ここからの描写がすごかったです。私の抱いていた障碍者アスリートに対する先入観が、ことごとくぶっ壊されていきました。これほど険しい道だとは思っていませんでした。

大きいのはスポンサーの不在です。義足代(480万円)やサポート人件費(年間ウン千万円?)などの莫大な資金が必要なのに、障碍者スポーツは知名度が低いから広告効果が期待できません。経済面から見て、プロスポーツとして成り立たないのです。さらには幻肢痛。浮腫による痛みが選手を襲います。

ひたむきな人間が報われる。一般的によしとされるこの考え方が、障碍者スポーツの世界では逆に足かせとなります。作者は「パンドラの箱」のエピソードを持ちだし、障碍者スポーツの残酷さを、以下のようにあらわしていました。

その箱を開けた途端にありとあらゆる災厄が飛び出してきたが、箱の底に最後まで残っていたものがあった。それは<希望>だったと言う。

「楽観的なエピソードとして捉える者が多いが、真逆の解釈も存在する。人間にとって希望こそが最悪の災厄という解釈だ。希望があるためになかなか諦めることができず、未来永劫苦しみ続ける。ワタシも同じ見方だ。希望ほどタチの悪いものはない。

小説はフィクションなので、沙良にとって都合のよい偶然がたくさん訪れます。それによって、希望を追いかけるのは悪いことではない、むしろ希望を掴もうとここまで一生懸命になって行動できる沙良はすごい、という結論が導かれ、ああ良かったと、ホッとした気持ちで本を閉じることができます。救いのある結末で良かったなと思いました。

が、現実の障碍者アスリートたちは、その多くが「希望ほどタチの悪いものはない」という現実を突きつけられているのだろうな、と想像します。これまで考えたことのなかった「希望の残酷さ」を突き付けてくる、衝撃的な作品でした。

研究者という職業のタチの悪さ

本作を読んで、はて自分にも諦め悪くしがみついている希望があるだろうか、と考えてみました。ゴリゴリにありました。今の仕事がまさにそうです。

詳しく書くと身バレしそうなので、ふわっとした説明にとどめてしまって恐縮ですが、私は科学技術の研究開発をなりわいとしています。かっこよく言えば「研究者」という人種です。この研究者という仕事を障碍者アスリートに重ねてみてみると、なんと残酷な職業なのかと思います。

研究開発の世界には「センイチ」という言葉があります。本当に素晴らしい発明は「千個やってみたうち一個くらい」しか出てこないものだ、という意味です。こういう認識を研究母体の経営層が持っているので、突飛な研究テーマが許され、とにかくやってみんさい、と励ましてもらえるのですが、よくよく考えると、なんと個人の人生をないがしろにした考え方なのだろうと思います。

ひとりの研究者が生涯に取り組める仕事の数は、たかが知れています。一年に一個大きなチャレンジができたとして、仕事人生40年を考えると、40回のチャレンジしか許されません。成功確率がセンイチだとすると、素晴らしい発明をできる人間は、25人に1人しかいない計算になります(実際はもっと少ない印象です)。

だとすると、残りの24人は「私の人生なんだったんだろう」という絶望感を抱いて人生を終えることになります。もしかしたら「やりきった!」と満足感にひたるかもしれません。しかし「本当は成功したかった」という思いは拭いきれるものではないのだろうと想像します。

研究者を志すものは、だれしも「いつかはノーベル賞に!」という希望を抱きます。そして「あ、自分の器じゃだめだ」と気付いたり、「努力はした。運が無かった」という状況になったりするものです。

研究は堅実に積上げられるようで、砂上の楼閣でもあります。科学技術は数十年サイクルでロストテクノロジーになります。「いつかは大発明をするかも!」という希望があるがゆえに、40年間頑張りつづけて、大きなインパクトを残せぬまま、星屑の一つとなる。ああ、なんて残酷な。

あらためて、自分のよりどころにしている希望が、絶望よりも酷いものだと思いました。

研究者の嘆きをお届けしてしまいました。失礼しました。どうしても「発明は残せなかったけれど、やりきった!」と納得するビジョンが見えず、悲観的になってしまいました。が、たとえ大ヒットを打てなくても「おもしろい研究人生だったな」とは思っていい気がします。くしくも本作で素敵な言葉に出会いました。

研究には楽しめる部分がないと辛いんですよ。逆に言えば、楽しさがあるから研究も面白くなる。

ノーベル賞は取れそうにないので、楽しい研究をよりどころにしていこうと思います。

おわりに

障碍者アスリートの復活劇を描いた「翼がなくても」を紹介しました。感動的な物語の裏に、希望というもののタチの悪さが描かれています。研究者の私は、つい自分の職業の残酷さに思いをはせてしまいました。研究者にかぎらず、博打要素のある仕事をしている方は、希望の残酷さに打ちひしがれるのではないでしょうか。それでもきっと救いはあります。希望は追い求めていいものに違いありません(そう思いたいだけ?)

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