東京大学の美容院

東京大学で髪を切る、という貴重な体験をしたことがある。およそ十年前の話だ。

当時、東京大学の本郷キャンパスには、敷地内に美容院があった。今はもう無いかもしれないけど、安田講堂の隣りに、ちんまりとした店を構えて営業していた。

その美容院の存在をはじめて認識したのは学部三年のときだった。安田講堂横のコンビニに行ったら、隣に美容院があったのだ。私はそのお店を見て、こう思った。

違和感がすごいな。

そもそも大学に散髪屋があるということ自体に妙な感じがするのだけど、百歩譲って大学で髪を切るのは許すとして、東京大学に美容院があるのは、絶対におかしい。

東京大学にあるのは床屋であってほしい。美容院なら、青学や慶應にあってほしい。青学に床屋があったらおかしいように、東京大学に美容院があるのは変だ。おしゃれレベルが釣り合っていないのだ。

もしも自分が東京大学の美容院に入るとしたら、周りからどのような目でみられるかを想像してみる。

「あっ、あの人、東京大学で髪を切る気だ」「しかも美容院だぞ」「オシャレになろうとしているのね」「でもここは学問を学ぶ場所よ?こんなところで外見を磨くの?」「中身を磨けよ」

こんなふうに思われるかもしれない。だめだ。恥ずかしすぎる。とてもじゃないが、入店できそうにない。

四年生になり、研究室に配属された。

バイトやら、実験やら、大学院試験やらで忙しくなった。その忙しさたるや、大学に泊まり込むほどだったので、いつのまにか髪が伸び放題になっていた。

恥ずかしいとか、言ってる場合じゃないな、と思った。前髪が伸びすぎて前が見えない。こんなに近くに美容院があるのだから、行かない手はない。

飛び込みで店に入った。ナチュラルテイストでとてもオシャレな内装。予想していた何倍も素敵なお店で、びっくりした。

「いらっしゃいませ」

店長と名乗るイケメンに声をかけられる。なんかいい匂いがする。ここは本当に東大なのか?異世界に迷い込んだような錯覚を覚える。

「どんな風に切りましょうか?」
「あの、ツーブロックとかって…」
「できますよー」

普通に格好良くしてもらえた。

会話も楽しかった。東大の美容院だけど、ハイゼンベルグの不確定性原理や、相対性理論の話をしなくても大丈夫だった。

東大の中にある美容院だからという理由で、変な先入観を持っちゃってたみたいだ。なんか悪いことをしちゃったな。

反省した私は、研究室に戻るやいなや、ワックスの甘い香りが残る髪を、ラボのメンバーに見せびらかし「あそこの美容院すごいよかったよ」と宣伝してまわったのだった。

こんなふうに、身近にあるのに、ちゃんと見えていない素晴らしいものが、この世にはたくさんある。少し勇気を出して新しい行動をすると、思いがけない発見があって、ワクワクする。

こんな話もある。

あるとき、東大本郷キャンパスの前を歩いていると、気になる看板をみつけた。ビルの細い階段を登った先に見えるその看板には、カフェの文字があった。

ひとりで入るにはちょっと勇気がいる。どうしようか。やめようか。散々迷ったあげく、これも経験だと思って、階段を登った。

扉をあけると、ウッド調の細長い空間が現れた。お客さんがまばらにいる。私は席につき、メニューを広げた。

ケーキセットがおいしそうだ。これにしよう。女性の店員さんに目線を送る。彼女はゆっくりとやってきた。

「チーズケーキのセットください」私は注文を告げた。

そこで「おや」と思った。店員さんが困った顔をしているのだ。あのう、チーズケーキをお願いします、と再度頼んでみたが、やはり困った顔をするばかりで、返事をしてくれない。そういえば「いらっしゃいませ」も無かった。

おかしい。

私が訝しんでいると、店員さんは自分の耳を指差した。あっ。耳が不自由なのか。

しかも、その店員さんだけじゃなかった。他の店員さんも、お客さんも、みんな耳が聞こえない人ばかりだった。聴覚に障害があってもストレスなく楽しめる、そういうコンセブトの店だった。

はじめは面食らったが、慣れてみるといい雰囲気だと思った。

誰も会話をしていないので、おそろしく静かで居心地がいい。ざわざわとしたカフェとは全然心地良さが違う。図書館のような静けさのなかで味わうコーヒーは、新鮮で格別だった。ケーキもおいしかった。

こんな店が近くにあったなんて。勇気出して入ってみてよかった。

今日のブログの記事は、散歩をしながら書いてみている。これも新しい取り組みの一つである。

歩きながら考える。散歩をしていると、不思議なもので、自然と文章があたまに浮かんでくる。歩きスマホはよくないので、ときどき立ち止まってスマホに文章を入力をしている。

いつもパソコンに向かって背中を丸めているけれど、外に出て、歩きながら文章を考えるのはいいものだなあ。アイデアが出やすいし、運動にもなるし、ひんやりとした夜風が気持ちいい。

小さいことだけど、今日もひとつ新しい挑戦ができてうれしい。明日もなにかやってみよう。

タイトルとURLをコピーしました